GOSICKsIII ‐ゴシックエス・秋の花の思い出‐ (角川ビーンズ文庫 79-11)
ヴィクトリカがまたしても風邪で寝込んでいる為、そして一弥もその看病?に当たっている為、
今巻は一切、事件は起こっていない。ひたすら一弥がヴィクトリカに物語を読んで聞かせている。
テーマを「花言葉」にした短編連作形態。
『純潔』(白薔薇)…1789年、フランス革命に消えた三角関係の悲恋
『永遠』(紫チューリップ)…1635年、オランダでの花バブルの狂乱
『幻惑』(黒マンドラゴラ)…0023年、中国で国王に一生を捧げた女戦士の伝説
『思い出』(黄エーデルワイス)…1627年、アメリカの女実業家の生育歴
そしてヴィクトリカにアヴリルが語る叔父の話、赤いデイジーに寄せる「花びらと梟」。
これは作中の現代なので、推理と呼んでもいいだろう。続けてエピローグ。
テーマを決めた連作と言うのは、作り手も受け取る側も楽しいものだ。
(画家ミュシャや作曲家ビバルディの「四季」とか、同じくミュシャの「四つの芸術」とか)
しかし今回は実際の事件ではなく、物語や伝記などからヴィクトリアが事実を推理するというのが…
それは「推理」じゃなくて「想像」だろう、と思うのだが…。
『純潔』の章で、愛に殉じる人間を理解し難いとするヴィクトリカは子供で可愛い。
ヴィクトリカのこの反応は、巻末の「花びらと梟」での真逆の台詞で活きてくる伏線になっている。
『永遠』は、少々トリックに無理を感じる(どこに、を描いてしまうとネタバレなので控えるが)。
『幻惑』、マンドラゴラ発見!と騒ぐアブリルとセシル先生に一弥がしたコメント、
「大根…それか、カブかなぁ。にんじんかも(略)」 …待て。人参の葉は似ても似つかないだろう!
『思い出』、エーデルワイスって高山植物じゃないの?と素朴な疑問。
あとアブリルの友人の台詞「くわばら、くわばら」て。思い切り日本固有の雷よけのおまじないだが。
安易な英単語の使用とか、些細な所で「ヨーロッパの小国(仏語圏)」とされている世界観が壊れるのが残念。
エピローグでは次巻で何かが起こりそうな気配。ヴィクトリカの回復と活躍に期待。
GOSICKVI ‐ゴシック・仮面舞踏会の夜‐ (角川ビーンズ文庫)
6作目『GOSICK V ベルゼブブの頭蓋』の明確な続巻である今巻は、
海に孤立した修道院から脱出した主人公ふたりが乗った列車の中で幕を開ける。
ひとつのコンパートメントに乗り合わせた面々が、その場限りの名前を名乗り、
お互いに自己紹介をする。皆一様に何かを隠し、その演じる役名は…
自分の誕生日を探す黒髪の少女<孤児>、お忍び旅行中の温和な中年の婦人<公妃>、
攫われた妹を探す貴族風の青年<木こり>、溺れ死んだ男の体を乗っ取ったという大男<死者>、
そして、金髪の天才美少女ヴィクトリカこと<灰色狼>と、そのまぬけな崇拝者一弥の<家来>。
―人間が咄嗟に吐く嘘には、本人の意思に反して、何かしらの真実が含まれる―
<孤児>がうっかり落とした赤い箱。それを皮切りに、それぞれの思いを乗せて
列車オールド・マスカレード号は、夜を走り抜ける…
さて、今巻ばかりは何故こんな構成にしたのか、理解に苦しむ。
事件が起きるまでを第一部とし、容疑者3人の証言と、犯人が己の証言を回想する第二部、
エピローグで締め、という形式になっているのだが、この最後の回想がまずい。
3人の証言で本人・周囲の描写を一切排して、語りだけで読まされたあと、犯人が確定。
その犯人が自分の証言を回想する形で、つまり証言と全く同じ文章のところどころに
「心の中の声」を入れ込んだ文章を、読者は再び読まされるのだ。
これは、例えば漫画であれば「絵ではなく台詞だけで説明する」という最悪のパターン。
そして、既刊でも度々書いたが、簡単な単語をひらがなで書く―所謂「ひらく」語句が多過ぎ。
「うつくしい」等は、その語句の持つ意味を強めたい故であろうが、
この作品にはこの言葉が余りにも多用されるため、言葉の印象自体が薄まってしまう。
p180〜などは、「かんじんの」「おもしろかった」「ほんものの」「おそるべき」「ちいさく」
「ちくしょう」「だいじょうぶ」「ぜったいに」「おどろくほど」「いっぱい」…キリがない。
冒頭から暗喩比喩を駆使した、この作者らしい装飾の多い文章に何とも不釣り合い。
また、p186「無事に帰ってはこまい」…こまい? 帰ってはきまい、では?
どちらにしろ「来まい」にしておけば良かったのではないか?
そして毒殺のトリックは、被害者が苦しみ出した時点の伏線で早々と見抜ける程度であるのに、
長々と引っ張り過ぎ。登場人物の正体も、同じ。とにかく簡単過ぎる。ヒントが多過ぎる。
そんなこんなで唯一良かった点は、主人公ふたりのお互いへの気持ちがランクアップしたところ。
名付けようのない感情から、はっきり愛情へと変わり、かけがえのない存在として意識する。
そこに出てくる「正しい弱さ」という表現が、作者が年若い読者に一番伝えたい言葉ではないかと思う。
GOSICKVIII下‐ゴシック・神々の黄昏‐ (角川文庫)
富士見ミステリー文庫から始まった桜庭先生の代表的シリーズがついに完結です。
神託でいわれた言葉から二人はどうなってしまうんだろうと思っていた読み手の一人であっただけに
エンディングにはほっとしました。(今になってもう一度よーく読み返してみると
良い方と悪い方どっちにもとることができるんですね。)
おおよその流れはアニメ版とほぼ同じですが、こちらのほうがヴィクトリカと一弥を含め、
登場人物それぞれにまつわる運命をよりはっきりと描いており、一部内容も異なります。
桜庭先生が公式ガイドブックで語っていた言葉を一部借りると、
ヴィクトリカと一弥は旧世界、旧大陸の物語の世界を逃れ、
神のいない新世界を生きるべき人間として描かれていました。
コルデリア、ブライアンを含め旧世界、旧大陸に生きる住民たちは物語の世界へと去ることになり、
灰色狼の末裔であるヴィクトリカも旧世界の住民として連れ去られそうになります。
しかしそこは、コルデリアがもう一人のヴィクトリカとして暗の部分をすべて背負い、
ヴィクトリカ自身が髪の色を失うことで旧世界から脱出できたのかなと思います。
自分個人が一番気になった点は、ふたりがそれぞれ持っていたペンダント。
アニメ版でもペンダントが二人にとってそれぞれを思い生きる希望であったわけですが、
小説版ではこのペンダントが二人の(特に一弥についての)運命を左右することになります。
もしペンダントがなければ、どうなっていたんだろうと思わされてしまいました。
エピローグは、ヴィクトリカと一弥の再会から5年後、マテリアル・ワールドに生きる二人。
世界を揺るがす風に負けることなく再会した二人が
旧大陸の物語の世界の呪縛から完全に逃れられたことを象徴しているようでした。
個人的にはマテリアル・ワールドにおける二人のエピソードを
短編集GOSICKsの形で出してもらいたいです。
最後に、桜庭先生、本当に良い物語をありがとうございました。
TVアニメ「GOSICK-ゴシック-」オープニング・テーマ:Destin Histoire
放映時から気になっていて
ネットで調べてみたのですが情報が余りなく
謎のアーティスト状態だったのですが
意外な経歴や実力に裏付けられた経験に
ただただ驚かされるばかりでこれからの
歌い手としてかなり期待できるんじゃないかなと
思っています、頑張ってほしいアーティストさんです。
砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない 上
僕はつい最近原作の小説を読んだばかりでした。
少女たちのみずみずしさ、青春の儚さ、そして悲しい結末に少なからず心揺さぶられました。
漫画化するということで迷わず購入しましたが、期待以上の出来でした。
ストーリーは原作に忠実で、絵も綺麗です。
文句なしにオススメの作品です。