Side by Side 1: Student Book with Audio CD Highlights
会話の内容も初級らしく、とても簡単です。
挿絵がカラーでとても多く、CDを併用してテキストをみれば、状況設定がイメージしやすく英語を英語で理解するのに役立つと思います。その点においては、グループレッスン用のテキストでありながら、独学でも十分役立つ教材になると思います。ただ、CDの英語は、ナチュラルスピードではなく、初級者が練習できる程度の速さになっています。(また、内容すべてCDに収録されてはいません)
食人国旅行記 (河出文庫―マルキ・ド・サド選集)
サドの手になる作品をはじめて読んだ。これほど優れた作品が、あまり話題にもならないのが、私には残念に思われる。
三島由紀夫は「サド侯爵夫人」のなかで、サドの家の家紋は、双頭の鷲であって、一方の頭は美徳を、一方の頭は悪徳を志向している、と書いている。その説が私の心をとらえた。この家紋が、この本の表紙に小さく配されており、気になって読んだ。
太宰治は「人間失格」のなかで、対義語遊びを登場させている。この遊びの効果として、ある語の意味と反対の語を想定することで、ある語の意味をとらえることができる、ということが挙げられる。サドは食人国(悪徳の国)をまず登場させることで、円く閉じられた国(平和・平等・公平があまねく行き渡った美徳の国)への強烈な切望を表現した。
誰かが言った。現世は地獄よりも地獄的である、と。作中、主人公は異端糾問所の牢獄に投獄されるが、そこで主人公が、ここでの待遇は食人国でのそれよりもひどい、と嘆く場面がある。異端糾問所は、神のみ名において、何の罪もない、いわゆる〈異端者〉を、自分たちの私利私欲のために、苦しめ、虐げる。なんという偽善、なんという悪徳が、そこで行われていたことか。罰せられるべきは、異端糾問所、お前たちじゃないか、お前らの横暴を黙認、看過している政府、国じゃないか、憤激が私をとらえた。
離れ離れになった恋人同士が、劇場で再会する、という筋立てが何とも心にくい。というのも、美徳の国では、国民に演劇を披露することで、罪を犯した人を告発する、という手段を用いているからだ。罪を犯せば、世間から糾弾される、それを演劇によって国が国民に訴えかける。それだけで自分の犯した罪を恥じ、罪人は劇場を飛び出していく。このような国が、現実に誕生したならば! サドの祈りは、本作の結末部において、象徴的に表現されているのだ。
ソドムの百二十日
サドの生涯はそのほとんどが謎といっても過言ではありません。また、サド文学がどこまで彼の実像なのかもはっきりしませんが、『ソドムの百二十日』を構造分析する上で、サドの描いたものはサドの分身だとします。まず、『ソドムの百二十日』は単純な二項対立からなっています。負の極にあるもの、「なぜ母は自分を生んだのかという生存と母なるものへの嫌悪」「女性性器の侮蔑」「男性との性交への偏差」「妊婦を本能的に憎む性質」「残虐な拷問」などがあげられますが、その対極、正の極にあるものもサドが意識するかしないかにかかわらず随時顔を見せています。それは「限りなく美しいものへの志向」に代表させられます。しかし、負の極にあるものと正の極にあるものとは別々に分離しているのではなく、ひとつにつながって循環運動をなしています。すなわち、「限りなく美しいもの」とその「醜い死」、また「死者との一体化」というふうにです。ここで注目しなければならないのは、その循環運動はサドの世界認識とパラレルな関係にあるということです。「富者は貧者を救ってはならない、なぜならばそんなことをすれば両者の差異が消滅してしまうからだ」「私は悪に荷担する。神は善を創造したが悪も創造した、だから私は悪に生きることによって善と悪のバランスを保つのだ」などに象徴されるように、サドの精神界には正と負にエネルギーが集まり、中間には何も存在していません。これがサド文学を読むときに感じる空白感のもとであり、サドがシーソーのように考えている世界観なのです。ですからボスによって定立された、「世界内存在の異常なあり方が性において集約的に現れたのが、性倒錯である」というものがサドにはぴったり当てはまるのです。
SADE - Lovers Live [VHS] [Import]
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