よく論評として言われているように、タルコフスキーの自伝なので彼にしか分からないのかもしれませんし、分からないので映像的な美しさを伝えるしかないのかもしえません。母や父に対する思いや自分の子供に対する思いは本人にしかわからないと思いますが、、、僕は「言葉で縛られた魂の解放」をテーマにしているような気がします。冒頭の吃りの子供が催眠術で治り、「何でも喋れるようになる。」こと、それに続く「植物も感じたり記憶したり理解したりできるが、人はくだらないことを喋る。言葉なんかでは気持ちが表現できない。」その後の母の記憶の中での「活字の間違い。」を気にして印刷所に駆け込むシーン。たぶんこのようなシーンが意味することは、言葉からの魂の解放だと感じます。感じることが大切であると、、、。だから、彼は映像詩で表現しているのだろうと思います。この映画の核は、決して単なる彼の自伝や幼い頃の記憶を見せて、彼の自伝記憶を伝えたいのではないのだと思います。言いたいのは、「言葉」だけでは意味をなさず、情報量の多い「映像」でこそ、感じるものを創れるという彼のマニフェスト(宣言)なのではないでしょうか。簡単に言うと「キレイな夕焼け」と言葉で表現するのは全く意味をなさず、その夕焼けを見せて、色や風や温度やすべてを見る側に委ねるというようなことでしょうか。映画には、いろいろな評論で言われているように、無論、自伝的な隠喩も隠されており、キリスト教と共産主義そしてブルジョアとの狭間、中国の革命やヒットラーの死体や原爆を見せることで、生きるということが家族や人間関係だけではなく社会的な影響を多大に受けるということ、彼の共産主義からの亡命を仄めかすところや、自分は頑固だったことなど個人的性格を表現しているところもあります。しかし、僕はやはりなんといっても、「言葉」という皮肉にも人にしか備わっていない高度なコミニュケーション方法から、「伝えたいこと」=「その映画のコアアイデア」=「魂」を解放する、彼の宣言映画に見えてなりません。そのアイコンとして十字架というビジュアルも存在するのだと思います。十字架の意味することは、たぶん、「言葉にされた教義」ではなく、絶対的な神の存在を感じることや、祈ることを視覚化したのだと思います。
意味論はこれぐらいにして、、映像はとにかく美しい詩でした。学生の頃は眠くなりましたが、、現在は僕にとって、非常に目が冴えわたる映画です。たぶん映画館が暗かったから?(笑)
映画は最高、でも画質は今回もだめおすすめ度
★★★★☆
以前ivcで販売しているタルコフスキーのDVDを買って
画質の悪さにがっくり来ましたが、
今回デジタルリマスターと銘打っていたので
買ってみました。
画質は、まあギリギリ見れるレベルと言えるでしょうか。
でもかつてあちこちの映画館で再上映されていた映像と比較すると、
年月が経過して段々色彩が劣化しているのは明らかです。
経年劣化は致し方のないこととはいえ、
映像の美しさが身の上のタルコフスキーの映画として考えると、
やはり悲しいことです。
IVCのノスタルジアもそうでしたが、
場面によって遜色の度合いがあるようで、
例えばラストシーンも、多分午後から夕方くらいだとは思うのですが、
空の色を見ると撮影当初より恐らく赤みかかっているのではないでしょうか。
久しぶりにもう一度この映画をみて、
自由度の高さに驚きました。
まったく、いつの時代のどこの国の映画であるかなどと
考える必要は無いように思います。
ボーナストラックのインタビューでヤブリンスキーも言ってますが、
体制が崩壊しても創造的な作品が出てくるということはないわけで、
資本主義国家であっても精神的な面での妥協や才能の上での凡庸さは、
免れることは出来ません。
鏡は、後の作品と較べると、ストップモーションもあり、
頻繁な場面転換ありで、いわゆる長回し多用一辺倒ではないですが、
今改めてみても決して古臭くなく、勢いのようなものがあると思います。
印象的なイメージがたくさん出現するというのに、
タルコフスキーだけがイメージビデオ風の映画にはならないのは、
やはり不思議です。
体験する映像・・夢魔か、楽園幻視か?おすすめ度
★★★★★
「僕の村は戦場だった」を見て、その繊細かつ鮮烈な映像と、悲劇でありながら、ラストシーンの眩しい美しさに、このロシアの監督の非凡な才能を感じた。
それから、岩波ホールで「鏡」を見ることとなる。「ぼくの・・」は物語を追うことができたが、「鏡」はまったく異質の映画だった。、主人公の意識の具象化のように、過去のさまざまな記憶の像が、戦時下のドキュメントフィルムと混じりながら、表出する作りで、長く引き伸ばされた実験映画をみるような印象・・・全体が茫漠として、時おりバッハが響き渡り、はっと息を呑むような映像に身体の芯まで浸かるような感じであった。だが、睡魔にも襲われたのだった・・・。見終わったその日の夜。一体何の映画だったのだ、という想いをひきずったまま寝床に・・。すると、何度も映画の場面が脳裏に蘇っては消えるということの繰りかえしで寝つけなくなってしまった。「鏡」の世界に身も心も捕らわれてしまったのである。
数日後にもう1度「鏡」を見て、やっと、五感と直感と霊感(?)で「わかった」のであった。そう、これは体感しなければならない「体験コーナー」のようなもの。視覚と聴覚を先入観なしにひたすら映画にゆだね、時おり朗読される詩の言葉を頼りに、悔い、思い出、喜び、悲嘆、憎悪、希望、夢などのねじれ、混ぜ込まれた、様々な記憶の深い底に落ち、再び、浮上して、昇華していく、言い換えると、この世の悲嘆と苦しみから解放され、楽園を夢見る・・そのための映画なのだ。だから、うっかりすると、その底にはまって漂い、ついに浮上できなくなる危険な体験でもあるのだ。
私は、いまだこれを超える映像体験をしたことはない。2度は見ることをお勧めします。1度では、記憶の淵に佇むだけで終わってしまうでしょうから。
世界がいざなうもの。
おすすめ度 ★★★★★
忘れがたい映画。夢や記憶を映像化しかくも見る者を納得させ胸を打つ映画は稀有だ。すべてを論理的に読み解
こうとすれば破綻する。詩の論理が介在し常識的思考は通じない。夢と記憶の断片が大半を占めることを認識す
るほうが有意義である。理解の及ばない人が「奇をてらった愚作」と断罪するのも、自分なりの解釈を持たない
迎合主義も同様に想像に難くないが、何も感じない共感する部分が皆無だなど、真摯に見つめるなら裏切りはあ
ろうはずもない。フィルムに絡め取られたイメージの普遍性は驚くべき分子構造で見る者固有の記憶とリンクす
る。彼の映画でよく言われる火や水のイメージが持つ表象が機能していることは確実だが、夢と記憶で構成され
るが故にその特性が余計に際立つ。火も水にも温度が宿り視聴覚を通して触覚に触れ体内深奥へと染み込んでく
る。異なる時間、異なる姿の自分や母が錯綜する時を超えた「夢」は圧倒的迫真力を伴い、記憶の中の瓜二つの
別人(世代)は融合し曖昧に時を普遍化してゆく。空想で生み出し難く見えるイメージは実在の懐かしい感情が
こびりつき不気味に美しく優しい。見つめる人ごとの思いに寄り添ってしまう。常識的論理が及びもつかない真
実の匂い。後悔や倦怠、恐怖、安堵、幸福、望郷、喪失、孤独、贖罪。そんな個の本性、細胞レベルに食い込ん
だ存在の本質をえぐり涙の源泉へと誘う。自然物が溜め込んだ記憶と表象の力を借りながら、『鏡』はフィルム
に焼き付いた心から離れない思い出という名の主観を奇跡的に普遍化し、人類の共有財産にまで昇華させた恐る
べき映像詩篇であり、「鏡」とは人間の心象を反射する自然物の喩えに他ならない。因みに他の人のレビューの
中に、女が「気をきかせて」鶏を持って行かせたという解釈があるが、私は全く逆ではないかと考える。決定的
に気が利かぬから、もっと深読みすれば追い返そうとして鶏を潰させ持たせようとしたのだと思う。