Julian Lloyd Webber plays Faure 's Elegy
Julian Lloyd Webber plays the beautiful Elegy by Gabriel Fauré with Peter Pettinger, piano. www.julianlloydwebber.com
Supremacy (24bt) (Dig)
ネオクラシックなフレーズから幕を開ける本作は、ボーカルのフォヴィンガとギターのファン・ダ・ラーズのコンビが
最もうまく行った作品なんでしょう。
センスの良いプログレ感が本作の完成度を相当上げています。
エレジー最高!!!(当時)
作家が過去を失うとき―アイリスとの別れ〈1〉 (アイリスとの別れ (1))
二人のなれそめの一章のあと、アルツハイマーになって夫の手をわずらわせるアイリスの姿をいきなり見せつけられる。子供に返ってしまったかのように、パンツの前後もわからない。これがあの哲学的な主題を駆使して小説を書いた人であるとは。「冗談を言うと、とくに下品な冗談にのみ反応するようだ」(p.44)。この部分には特に痛ましさを感じる。本当だろうか。下品という言葉には性的なニュアンスをふくむことが多い。痴呆でそうなるということをものの本で読んだことがあるが、彼女にかぎって・・納得がいかない。原作を調べてみると、bad jokes を「下品な冗談」と訳したことがわかる。「かつてアイリスは下品なきわどい冗談はさけていた」と数行あとに出てくる。哲学者でもあったこの人ならばそうであっただろう。訳者はそこからひるがえって bad jokes を下品な冗談と訳したらしい。ところがbad jokes のすぐ前の文章は、子供時代の童謡に反応し「昔の接点と衝動がよみがえって」、bad jokes にのみ反応するとある。となればこの bad jokes は「下品な冗談」ではなく、「たわいもない(子供っぽい)冗談」とでもしなければおかしい。彼女の名誉のためにも言いたい。子供にもどってしまったアイリスは、たわいのない冗談にだけ反応するのであって、下品な冗談にだけ反応するのではない(えらい違いだ!)。
ときどき意味の腑に落ちないところがある。彼らの引っ越した家の庭の塀際に、立派なイチヂクの木があった。「夏になると茂った葉で窓から外が見えなくなり、居間にはイチジクの葉の土埃が積もって深い緑陰の東屋のようになった」(p168)。イチジクの葉の土埃が積もるなんて、まるで家のなかに木が生えているようではないか。原作を見ると土埃が積もるなんて書いてはいない。「わが居間はその汚れや埃をconceal(隠して)」とある。繁った葉のせいで部屋が薄暗くなって、汚れや埃が目立たなくなったという意味らしい。
しかし翻訳の瑕瑾はあっても、かつてアイリス・マードックの小説を愛読したことのある人なら、怒りと哀しみをもってこの手記を読むだろう。
Harrison's Principles of Internal Medicine, 18th Edition (2-volume set)
1949に1eが出版されて以来, 62年間で17回の改定を経た18e.