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関ヶ原から200年下ったこの時代、武士たちは先祖の遺産で生きている。先祖の働きに応じて家老の子は家老、50石の子は50石とベースが決まっている。そしてその50石という扶持は農民から巻き上げるもの。商品経済が発達する中で租税は農民にだけ課すという歪さの中、武士と農民は長年の緊張関係を生きている。
武士も農民も、この本の登場人物たちはそういう閉塞感の中で呼吸している。時代の息苦しさをきっちり描くからこそ際立つ、主人公の凛とした生き方。しかも切腹が宿命付けられてるから閉塞感は余計に募る。そういう作者の心憎い配慮に乗せられて、最後まで一気に読むことができた。
そして美しい描写と熱の籠った筆致。戸田秋谷がカッコよすぎじゃないかとか、他の登場人物の深堀りがとか、言い出せばキリがない。でも明らかに直木賞にふさわしい快作だと思う。
マスカレード・ホテル
推理小説の醍醐味は、いかに予想を覆すかだと考えます。そういう意味では本作品は最後まで犯人がわからず、読み終えてから伏線の存在に気づくような展開で、相変わらず素晴らしいと感じました。ただ期待が高くなりすぎているため、それを超えるのは難しくなってきているのも確かです。
それから、人形町界隈で頻繁に取材をされていますが、さすがにもうあのエリアで事件を起こすのは難しそうですね? 残すは成城石井? ピーコック? 明治座? それとも兜町や茅場町の方へ足を延ばすのでしょうか? 次の舞台が楽しみです。
八日目の蝉 [Blu-ray]
見応えは十二分にある映画である。
普段は完全に洋画派だけど、邦画も捨てたもんじゃないと思わせてくれる
良作であった。
だけれども、原作のファンという立場からしても、この映画化には「違う」と
いう声をあげたくなる。
いろんな面で“順番”がどうにもこうにも気に入らない。
実母の恵津子さん。なんであれほどひどい描き方をされるのだろうか?
いの一番に出して数秒で憎々しげなことを語らせ、そのあとで希和子の目線に
立ち、誘拐シーン以後をじっくり語っていく。
たまに恵津子が出てきたかと思えば、ヒステリックなだけ。
この描き方はあまりにも狡猾である。なぜなら、浮気されるより前の恵津子は
出てこないし、よって浮気されるまでの彼女がどんなだったかわからないのに、
これでは希和子を善、恵津子を悪と洗脳したいとしか思えない。
希和子がもともと恵津子から嫌がらせを受けていて、その結果の浮気であれば
まだわかる。
でも、「からっぽながらんどう」って言葉も、家まで押し掛けられ中絶を非難
されたことも、すべて希和子が人の旦那に手を出したゆえの結果。同情の余地
など微塵もない。
だけれども、なぜかここも希和子が被害者とでも言いたげな描写になっている。
その“順番”を無視しているのが、この作品で一番ずるいところ。
正直、腹立たしくさえあった。原作では決して逃げていない部分だし。
そしてやはりそれを理解できていない希和子に私は感情移入などできない。
これは映画館で観たのだけど、周りがめちゃめちゃ感動していそうな中、一人
「う〜〜〜〜〜ん……??」と思いながら観ていたら、極めつけの“一言”を
恵理菜が恵津子に放った。
「何かをしたら自分に返ってくる」
いやいや、違うだろ、それはまず希和子に言うべきだろ!!(無理だけど)
そう心の中で叫んだのは私だけなのだろうか。
そして結末。原作では恵理菜(薫)と希和子はすれ違って終わる。2人の人生
は決して交わらない。
だが、この映画では写真を通してはっきりと再会している。
その点にも私は失望した。これでは、母性というものに勝敗があるということ
になる。
どれほどオブラートに包んでも、結局は犯罪を認めてしまっている結末。
私には受け入れることはできなかったです。
しかし、この作品、とにかくキャストが素晴らしい。
永作博美さん、井上真央さん、森口瑶子さん、小池栄子さん。これほど最強の
チームもないんじゃないかと思うほど、全員が素晴らしいお仕事をされていた。
それだけでも一見の価値がある映画だった。
井上真央さんはまだ若いし、どんどんこういう作品に出てもらいたいなと思う。
そして小豆島の風景。日本映画はやはりこういう描写がいい。最近はどうにも
キッチュな映像の映画が増えているけど、こういう美しい映画が増えてほしい
ものだ。
全体的に批判が多くなってしまいました。
確かに解釈自体は気に入らなかったのだけど、じゃあこの映画は失敗なのか。
いやいや、そんなことは絶対にありません。
近年稀にみるすばらしい作品です。
もう観ないのか?
いえ、たぶん何度も観るでしょう。また、感想も変わるかもしれないし。
それほど、広がりを持たせてくれる、いい映画です。
長崎ぶらぶら節
今は東京に住んでおり、故郷を懐かしんで購入してみました。
長崎ぶらぶら節で現在、最もよく知られる歌詞「長崎名物ハタ揚げ盆祭り〜」は歌われていません。長崎ぶらぶら節には二百年の歴史とともに、歌詞が多くあると聞いていますので、往時の長崎人はぶらぶら節に(途中、古賀先生と愛八さんに拾われつつ)、その時代ごとの空気を含んだ新たな歌詞を付け、永く楽しんできたのでは? また、この原盤が作成された昭和6年当時、まだ「長崎名物ハタ揚げ盆祭り〜」の歌詞は存在していない、もしくはメジャーではなかった? こう想像して、まず楽しめました。
また、愛八さんの歌い節は、明治生まれの祖母が話していた古い長崎弁の記憶と結びつくところがあり、なんとも言えず気持ちが安らぎます。今ではほとんど使われなくなった古い長崎弁ですから、ぶらぶら節にある「甲の寅の年」という節回し一つを取っても、私(1971年生)には今の長崎弁の発音との微妙な違いを聞き分けることのみ、正確に発音することは不可能です。当時の言葉とともに風情が生きる貴重な音源、遺産ではないかと思いました。
蛇足を承知で、、
70に近い母は「海老」を「ebi」と発音せず、正確に表記できないのをお断りして、「iyebi」に近いふうに発音します。古い長崎弁は今でも長崎に、少しばかり残っているようです。
苦役列車
読み終えて、ただただ圧倒され、出版社宛てに、初めてファンレターのようなものを書きました。「ようなもの」というのは、まだファンになったのかどうか自分でも定かでなく、ただ闇雲に何かこの作者に向けて発信せざるをえないという感情だけだったから。
漫画家でいうと、つげ義春作品の読後感、あるいは林真理子氏の「ルンルンを買っておうちに帰ろう」以来の新鮮な衝撃を受けました。
勝ち組、負け組と選別したがる風潮が蔓延する社会の中で、他の作品からも窺える、これほどまで藤澤清造を軸とした生き方にはキングオブオタクという賛辞を送る他ありません。
また独特の文章に今時の草食系とは対極の非常なる男性性(あまりにも男性性が強すぎて自分でももてあましてる)と諧謔味を帯びた芸術性を感じます。
私小説を書き飽いたら、海外へ旅などして今までに無い旅行記を書いていただきたい。